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三帰依

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2009年 9月23日(水)01時36分48秒
返信・引用
  三帰依
人身(にんしん)受け難し いますでに受く
仏法聞き難し いますでに聞く
この身今生(こんじょう)において度せずんば さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん
大衆(だいしゅう)もろともに 至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉る
自ら仏に帰依したてまつる まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん
自ら法に帰依したてまつる まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて 智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん
自ら僧に帰依したてまつる まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して 一切無碍(いっさいむげ)ならん

<今こそ出発点>
人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今 この幸せを喜ぶこともなくいつどこで幸せになれるかこの喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は今この瞬間 ここにある
今 ここで頑張らずにいつ頑張る
京都 大徳寺 大仙院 尾関宗園
 
 

いただきます

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年10月 8日(水)03時05分37秒
返信・引用 編集済
  ある母親が「うちの子は、給食費を払っているのだから『いただきます』と言わせないで欲しい」と学校に申し入れたという話がありました。

その母親は「給食費を払っているのだから、学校が親に感謝すべきだ」というのです。

「いただきます」「ごちそうさま」は、お金を払っていれば言わなくてはいいのでしょうか?

 今の日本は、発展途上国からみれば、欲しいものは何でも手に入ります。貧困や飢餓に耐え忍ぶという経験も遠い昔のことです。それゆえに「ありがたい」という心をなくしてしまったのでしょうか?目に見えるものに感謝の心ももたず、目に見えない恩恵(お陰様)などは全く分からなくなってしまったのでしょうか?そうだとすれば、あまりに貧しく悲しいことです。

 誰に「いただきます」「ごちそうさま」というかといえば、まずは、食材に対して、そして私を生かしてくれている「仏様」と「食事を作ってくれた人」にです。

今は世界的に食糧不足となってきています。
そこに肉や魚や野菜という食材がなければ、いくらお金を払っても食事はできません。
その食事を作ってくれる人や、火や水がなければ食事はできません。
今、食事ができるのは当たり前でもなんでもなく、多くの人々の力によってです。
人間は自然の恵みを受けなければ生きていけませんし、協力し合わなければ生きていけない動物です。
ひとりでは何もできないし、何も生み出せないのです。
社会で生きるということは、それぞれ役割分担するということです。
自分を陰になって支えてくれている人々、社会、自然があってこそ、私たちの食事があり、命があるのです。
大げさに言えば、食事に感謝するということは全世界、全宇宙から受けている恩恵に感謝することなのです。

この世の生物は、お互いに他の生物の命を奪わなくては生きていけないという食物連鎖の中にあります。
動物にも、魚にも、植物にも「いのち」があります。その命をいただくことによって、私たちは日々を生きています。

つまりは「生かされて生きている」のです。

仏教では食事を大切に扱います。
食事は私たちの命を養うものだからです。
仏教では食事も大事な修行のひとつです。
ですから仏教では、食前には必ず合掌してお経を称えてから食事をいただくのです。

きらめき第14号より
 

社会の仕組み

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 9月27日(土)05時18分19秒
返信・引用 編集済
  社会の仕組みを見てみると、産業構造というのがある。
第一次産業・・・農業・林業・漁業など減量を提供するもの。
第二次産業・・・工業・重化学工業などの減量を加工して製品を作るもの。
第三次産業・・・出来上がった品物を社会へ流通させるもの。

これらの産業の中で、流通は運輸という専門分野が特化して発達してきた。

さらに、現代ではマーケッティングなど形のない知を売る商売も発展してきている。

次に、生まれてきたのが証券の取引など利ざやを見込んだ実態のない経済取引だが、これが破綻して大きな社会問題となっている。

第二次産業以降と第一次産業の間には利益の上で大きな隔たりがある。第一次産業は、自然の恵みの恩恵から生まれるもので、必要以上に儲からない仕事だ。しかし、第二次産業以降を支えている大切な仕事である。構造的に儲からない分、社会が豊かになってくると自然に貧しくなる。

豊かさとか貧しさとか苦労というのは比較の問題である。
みんなが自転車に乗っているときに、自転車に乗っているのは苦労でも貧乏でもない。みんなが車に乗っているのに自転車しか乗れなければそれは貧乏である。

社会が豊かになり、多くの人が海外旅行へ行けるようになった今日、行けない人は貧乏だろう。

これだけ社会が豊かになったのに、第一次産業に従事する人が赤字になっったときくらい助けてやるような仕組みがないというのも寂しい気がする。例えば、牛乳など200円前後で買えるが、それが市場経済の原理にによって生産者が不利益になる場合すらある。酪農にしても農業にしても簡単に生産調整できる業種ではない。過去のデータから計画的な生産も可能ではないのか?新たに農業を始めるのは難しいので過当競争は起こり得ない仕組みになっているのだから。

魚などは獲れない時もあるだろうが、獲る量を減らすことは出来るはずだ。最低価格は決められるはずである。これらは流通経路が確保されていれば出来るはずだ。

減量を加工して売る第二次産業は、農産物を扱うにしろ鉄などを扱うにしろ、そこに技術が加わることにより原料の数十倍の値段で売れる。第二次産業はすごく儲かるのだ。第一次産業とは比較にならないくらい儲かる。

そして、これを支えているのが流通である。中でも運輸は重要である。場所も費用も掛かるが、運輸のネットワークが日本を隅々まで豊かにしてくれている。

ここまでは堅気の商売である。

しかし、今日では、ノウハウを売る形のない商売も成り立つようになってきたが、これはあくまでも実態のある第三次産業までが豊であることが前提だ。

特に付加価値を生み出すのは技術革新だ。日本はこれによって世界と伍してきたのだ。

何も難しい技術ばかりが大切なわけではない。やる気のある人たちは皆大切な人材だ。

政府はそういうやる気のある人たちの活躍の場を提供できるような社会の仕組みを作るべきではないか?

何かを始めるときに必要となるのが土地だ。この土地が流通する仕組みは既に出来ている。税制によって、何も生産しないで多くの富を持っていることは日本では不可能である。3代続けば身上は終わるという今の税制があるからだ。これは決して悪いことではない。今の農民のほとんどは農地解放によって只で土地を得た。その土地にアパートを建てたり、駐車場を経営したりして美味しい思いをしている人もたくさんいる。でもそういう人たちは所得税を払うことによって社会に還元しているのだ。しかし、消費者保護の観点から言うと、農地は食料を供給して欲しい。

今までの行政は生産者保護の立場だったが、最近では消費者保護の観点からいろいろな仕組みが出来てきている。つい先だっての事故米の問題も生産者保護の立場に立った行政の仕組みから生まれたものだ。

日本ではいろいろな仕組みが上手く出来ていると思うのだが、政治の世襲化にによって新しい財閥が出来ようとしている問題があると思う。それは、政府はかなりの資産を持っているということだ。その資産を運用する上において、一般と同じような感覚で運用しているところが問題だと思う。

例えば、不良債権など実態のない経済活動に投資することによって年金資金が水の泡となってしまうようなことをしているのは問題だ。
また、納税で上げた土地の利用法である。一般で持っているのではないのだから、只単に市場経済の中で売って儲けるような事をしないで、優秀な人材に新しい商売をさせるために投資したらどうだろうか?今の世の中ではいくら能力があっても元手がなければ十分能力を発揮しないうちに年をとって埋もれたままで終わってしまう人も多いだろう。それは国益に反するのではないか?稼げる人に稼いでもらわなければ社会は豊かにならない。

世襲した議員や官僚たちが、税金を政府という会社の資金のように使うのは如何なものかと思う。

社会の仕組みの中で、絶対に儲からない第一次産業のような分野に携わる人々に対しては弾力的な待遇も必要ではないだろうか。単なるバラまきではなく、政府の召し上げた土地利用して農業特区みたいなモデルケースを作ってはどうだろうか?
農業というと若い者たちは笑うが、第一次産業を人から笑われないような垢抜けたライフスタイルを作り出したら、もっと張り合いと誇りを持って仕事が出来るのではないかと思う。
何でも杓子定規に市場経済で割り切る必要はないだろう。原料価格が上がれば第二次産業以降の産業全てに影響が出るのだ。それよりも原料の安定供給をはかる仕組みを作った方がはるかに社会は安定した成長をするのではないか?
そもそも、現在の農業政策もこうした観点から保護政策がとられて来ているのだが、その政策がちゃちい。只のばら撒きなのだ。頭のいい人にもっと考えて欲しい。どうしたら豊かさを実感できる第一次産業にできるかと。

日本人が日本というチームの1員で良かったと思えるようなチーム作りが必要だろう。

税金を投機などというリスクの高いものに使うのはやめて、技術革新や実体のある経済活動を活発にするものに使えば必ず利益は上がるはずだ。

日本人一人一人が日本国民であることの利益を受けられるような情報や流通のネットワーク作りを日本政府がやるべきではないだろうか?インターネットを利用したフリーマーケットなど作れば良いと思う。ヤフーとか楽天の出店コスト高いし。(爆)
分野別、地域別で検索できるようにしたら使い勝手も良いだろう。技術的には簡単に出きるはずだ。そうすれば地産地消モ進み経済効率も良いだろう。
国民一人一人が儲かれば、納税率も上がり国も豊かになるはずだ。そろそろ、大企業依存体質から脱却すべき時期に来ているのではないかと思う。

http://www.green.dti.ne.jp/raigouji/

 

貪・瞋・痴の三毒とは言うが・・

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 9月24日(水)11時38分50秒
返信・引用
  欲望は生命の源だ。これをなくすことは出来ない。
欲は意欲といった場合は良い方に働くが、貪欲と言った場合は際限のない欲求で、それが食欲であれば体をも壊すし、国家的な規模では侵略戦争にも発展する。

性欲もなければ人類という種は滅びてしまうだろ。あり過ぎてだれかれ構わず手をつけるのも困ったものだ。適当にあるのが良い。

名誉欲もなければ人でなしとなってしまうが、あり過ぎても人の足をひっぱったりもっとひどい場合は人を陥れたりもする。

瞋の心もなければ人に良いようにされてしまって自分が困る嵌めになる。喜怒哀楽は人間に必要な感情だ。

頭が良すぎて生まれてこの方起こったことの全てを記憶しているのも辛いだろう。嫌なことがあっても忘れることが出きるから生きていられるのである。

いずれもその振幅が大切なのではないだろうか?
あるものをなくすったってそりゃ無理だろう。

モノは言い様で同にでも解釈できる。

人の為なんてのは最も疑ってかからないと偽者の場合があるから用心しよう。

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忘己利他(もうこりた)

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 9月24日(水)01時29分44秒
返信・引用 編集済
  伝教大師のたまわく

国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。

道心有るの人を名づけて国宝と為す。

故に故人曰く、径寸十枚これ国宝に非ず、一隅を照らす此れ即ち国宝なりと。

即ち、道心あるの仏子を西には菩薩と称し、東には君子と号す。

悪事は己に向かえ、好事は他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。


己を忘れて他を利する忘己利他の精神は仏教で説く菩薩道の真髄である。この実践に於いて布施や捨の心があるが、これらは歴史的に見て歪曲されて政治利用されてきた節がある。

例えば、滅私奉公という言葉があるが、このことと忘己利他というのは似たような語感を持つが全然違うものだ。

今の70代くらいの人たちと話していると、この2つの言葉をどうも混同しているように感じる。

政治の腐敗について語る時など、必ずといっていいほど、昔の政治家は身上を擲って人の為に尽くしたものだという。そしてその結果、奥さんや家族は大変な苦労をしたという。

私はこの点に大変な疑問を抱いてきた。身上を擲つってことは自分の生活の基盤を失うことで、それは自分だけでなく家族をも巻き添えにすることでもある。自分の身近な人から不満が出るようなやり方が果たして正しいのか?家族さえも幸せに出来ない男が世間の人々を果たして幸せに出来るのだろうか?ということだ。

若い頃、自分のことはさておいて人の為に尽くすと教わったが、それを聞くたびに疑問を感じてきた。自分を大切に出来ない者が果たして他人を大切に出来るだろうか?自分を犠牲に出来る精神構造の人がたとえ居たとしたら、その人は他人の命などもっと軽く扱うのではないだろうか?という疑問だ。そして、何よりもお話の中ではよく聞いても、自分を犠牲にして人の為に尽くしてなおかつ愚痴も言わないような人を実際には見たことがない。そこで長い間、この言葉は天皇を中心とする国家体制を維持するための政治的プロパガンダではないかと思っていた。

忘己利他を滅私奉公のバックボーンとして理解すると、日本の特攻隊やイスラム聖戦のジハードなどが生まれる。人間は教育によって、自分の命より尊い何かの為に死ぬことが出来る。しかし、それを命じている親方がまっ先に実行した話は聞いたことがない。生きて虜囚の辱めを受けるなと訓令していた本人は、最後は軍事裁判に掛けられ絞首刑になったのは歴史的な事実だ。それほどまでに惜しい命を、よくも他人には大儀の為に死ねと言えたものだと思う。

伝教大師最澄は生涯を仏法興隆に捧げた人だ。何を言っても説得力がある。しかし、最澄は本当に難しいことを言ったのであろうか?もし、普通の人が真似できないようなことを言ったのであるとすれば、偉いと思ってもそれに倣う人はいないであろう。

仏教の根底を流れている思想は平等観だ。仏も自分も衆生も異なったものではないと教える。凡夫である自分が仏になれる教えだ。それは自分の心にある仏性(ぶっしょう)を開顕させることにほかならない。仏教では仏性は誰にもあると教える。山や川や草や木にもあるというのだ。世界が仏で満ち溢れていることになる。

では、いったい、どうしたらその仏性を開顕しすることが出来るのであろうか?
人が亡くなるとお葬式をするが、先ず最初にするのは剃度式といって、剃刀で髪の毛を剃って仏門に入る作法を行う。そのときの文句に、こういう言葉がある。
流転三界中 るてんさんがいちゅう 迷いの欲界・色界・無色界のなかに生々流転し
恩愛不能断 おんないふのうだん  父母妻子などへの恩も愛も断ち切ることができない
棄恩入無為 きおんにゅうむい   その恩をすてて、生死をのりこえた境地にはいる
真実報恩者 しんじつほうおんしゃ これこそ本当に恩にこたえることである

生きているということは自我があるということであるが、命と命でないと思っているものは実は繋がっている。私たちは、水や空気や太陽の光なしには生きていることができない。地球に生かされているのだ。もっと言えば、その地球を有らしめている宇宙に生かされている。子の生命活動は果てしない無始無終といわれる宇宙と一体のものだ。

我々の住んでいられる地球は太陽に温められた空気が気圧の差によって、気圧の高いところから低いところへ流れていく。それによって地球の大気は平衡を保ち我々は住んでいられるのだが、その営みには俺が・・・してやったなどという観念はない。まさに無為であり、それが自然だ。

仏の心とはまさにこの自然の心でありそれは無為の心に他ならない。生きているときは俺が俺がと言っていたものも死んでしまえばその俺は無くなる。仏法の真髄はこの自我を越えたところにあるのだと思う。

かつて、山田恵諦座主が法話の中で説かれていた四つの大きな心というのがある。慈悲喜捨の四つで、それを四無量心と呼ぶ。
1 慈の心は楽を与える。
2 悲の心は苦を抜く。
3 喜の心は、楽を与えられて、苦が抜かれた姿を見て喜ぶ。
4 捨の心は、あの人の苦を私が抜いてやったのだ、あの人に私が楽を与えてやったのだという、私が・・という思いを捨てること。

伝教大師最澄さまの仰る忘己利他はまさにこの四無量心ではないだろうか。普段、私たちは行動を起こすときに、自分にとって快か不快で物事を取捨選択していると思う。その主体は自分である。しかし、その自分を超えた無為の世界にこそ仏の世界は広がっている。

困っている人がいたら、空気が気圧の高いところから低いところへ流れるように、無心で手を差し伸べられるような心。今こうしておいたら将来こんな良いことが返ってくるのではないかと期待するような、いつも自分を中心に据えたものの考え方を離れ、良いことをしてもそれにとらわれない心が、己を忘れて他を利する心であり、自我を超えるということは無為の世界を知ってそれを実践することではないだろうかと思う。

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伝教大師がやってきた

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 9月21日(日)15時32分36秒
返信・引用
  来迎寺にもついに伝教大師がやって来ました。

伝教大師のたまわく

国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。

道心有るの人を名づけて国宝と為す。

故に故人曰く、径寸十枚これ国宝に非ず、一隅を照らす此れ即ち国宝なりと。

古哲また云く、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり。

能く行いて言うこと能わざるは国の用なり。

能く行い能く言うは国の宝なり。

三品の内、ただ言うこと能わず行うこと能わざるを国の賊となすと。

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鳩舎跡地

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 9月 3日(水)23時45分44秒
返信・引用
  東屋のある場所は私が鳩レースをしていた鳩舎跡地でベースはそのまま使っています。10年前、鳩舎を作る時に今の計画はしてあったので、東屋がそのまま載る様なベースに作ってあったのです。この東屋の場所にはこの鳩舎がありました。

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鳩供養

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 9月 3日(水)23時30分10秒
返信・引用
  鳩供養の会場として今年から自坊の来迎寺で行います。
年に一度の集いをより実りあるものにしたいと思います。
鳩供養の道場として千福亭法苑で愛鳩の永代供養を出来るようにしました。
忘れがたい銘鳩の姿を永久に顕彰するために石碑に刻んだ写真と翔歴を18cm角のパネルにして御祭りできます。また、鳩の埋葬も出来ます。パネルの数には限りがありますのでご希望の方はご予約下さい。石碑は幅6尺高さ2尺7寸です。18cm角で4段に収まります。

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百人の村

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 9月 3日(水)22時39分9秒
返信・引用
  NPO法人オアシスの動画サイトで広報されている百人の村を石碑にした。
この百人の村からいろいろなことがわかる非常に面白い統計だと思う。
これを見ながらいろんなことを考えることが出来る。
http://www.oasisjapan.org/main/modules/pico/index.php?content_id=4

石碑施工スライドショウ
http://www8.plala.or.jp/ssppigeon/senpukuteislideshow.htm

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お経を読んでみませんか?

 投稿者:和尚さんメール  投稿日:2008年 4月22日(火)22時53分15秒
返信・引用
  5月からお経を読む会を始めます。

妙法蓮華経法師功徳品第十九に「お釈迦様は常精進菩薩という名前の人におっしゃいました。法華経を大切にして、読書、暗唱、解説、書写する人は800の眼の功徳、1200の耳の功徳、800の鼻の功徳、1200の舌の功徳、800の身の功徳、1200の意の功徳を得るでしょう。この功徳によって、六根は荘厳にして清浄になります。」とあります。

来迎寺では、より多くの人々に仏教を日々の生活の中に取り入れていただくために5月より初心者向けにお経を読む会を開催致します。

お経を唱えてみたい、お写経をしてみたいという方はふるってご参加ください。初めての方でもわかるようにご説明いたします。
 

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